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中国一口話

プロフィール

ブログ名
中国一口話
ブログ紹介
1935年 5月15日 長崎で出生 すぐ中国長春へ渡る
1948年 8月     撫順より広島に引揚げ
1952年 4月     電気通信省へ入社 電電公社を経て NTT
1992年 4月     NTTを退職
1993年 4月     北京語言学院へ短期留学
1997年 9月     瀋陽看護婦学校で日本語教師
2000年 2月     アジア囲碁祭りを松山で開催
2004年 9月     瀋陽〜北京自転車旅行
2005年 5月     「けんさんの中国ぶらぶら」を出版

趣味 : 囲碁 尺八 自転車
愛媛県日中友好協会理事

「けんさんの中国ぶらぶら」 http://www.ken-san.jp
「北京歌日記」 http://tanka.at.webry.info/
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中国維新

2005/11/22 00:58
 中国で心ある人は、日本の明治維新を高く評価しています。 私の友人で維新という名前の人もいます。

 中国は老人の国ですが、一方で若者の道も開かれています。

1998年瀋陽で開催されたアジア体育祭囲碁部門に参加したときのことです。折衝に当たっていた22才程の若い女の子は、私はてっきり事務員だとばかり思っていたのですが、彼女が責任者として開会の挨拶をしたときは驚きました。
 雑用から対外的な折衝まで、全部若者だけでこなしているのです。
 明治維新政府の若者がこうだったかと思うほど、彼等の目は輝いています。遣り甲斐があるだろうなと、羨ましく思うときもあります。
 学生も凄く勉強します。早朝国旗掲揚と国家の演奏を聞きながら、校庭のベンチでは若者が本を読んでいます。図書館はよる九時まで、灯りが消えません。

 発展途上国は、まさに維新を目指して発展しています。

 若者の 目の輝きが 国を変え
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中国経済は発展するか

2005/11/22 00:57
 改革開放を水の流れに例えたら、外洋の堰をきって内陸に水を引きこんだようなものと言えないでしょうか。

 抽象的に言えば、経済発展は拡散と均一化の進行でシュミレーション出来ると思います。

 水位の逆転はあるか。
 仮に無いとしましょう。
 だとすると、問題は拡散のスピードと均一化の時期です。
 中国の内政問題、経済問題は農村問題に集約されます。
 一次産業と、二次三次産業との成長率の乖離は動かせない。
 しかし、先の一尺祭りや上海近郊の農家のように、農工業の配置を適正化すれば、成長率の乖離を持ったまま解決の方策はあるかもしれない。
 それが、郷鎮企業の育成であり、もっと大規模化したのが、「西部大開発」です。
 これの目標が100年先ですから、均一化は100年先と見ます。

 もし西部大開発が成功したら、中国の歴史は4千年で始めて一ページを開くことになる。

 経済の 流れが政治の 色を変え
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中国よ何処へ行く

2005/11/20 22:22
 改革開放は「走れる者は走れ」。その面では資本主義そのものです。

 一方で厳然たる社会主義国家ですから、土地は国有で、農民には居住地選択の自由もありません。

 計画経済という「見える手」は、沿岸部に国家が人為的な梃入れして、それが内陸格差となり、傾斜に更に拍車をかける。
 2002年11月、特色有る社会主義の建設を目指して、中国共産党は、重要な規約改正をしていました。
 18才以上の国民なら、原則誰でも党員になれるというものです。
 それは、憲法一条で明確にしているプロレタリア専政という国の骨格をも揺るがせかねないことです。

 歴史は権力分散の方向に流れている。中国もその方向に流れるのか、中国人本来の姿「バラバラ」に戻るのか。

 改革の レールの先は 何処へ着く
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一尺祭

2005/11/20 10:44
 終戦後私は中国で栄養失調になっていましたが、日本も食糧事情は最悪だったようです。

 買出し、闇屋という言葉は、私が1948年日本に引き揚げたときも残っていました。

 闇屋とは、食料品など統制物品を非合法に取引する人。買出しとは、近郊農家に、直接食料品を買いに行くことです。
 当時日本の都市近郊農家では、猪(十円札のこと)を積み上げて一尺になったらお祭りをしたとか。
 いま中国でも、上海近郊の農家のように沿岸部の発展地域に隣接した地域では、避雷針がついた吹き抜けの高層近代建築が立ち並び、その屋上に農作物を干しているほど景気が良い。
 これだけ見ると、中国の農村問題は全て解決したようにも見える。総体的に見た実態はそうでないから内陸格差となり、社会不安を造成する要因になっています。

 二桁という猛スピードで成長を続ける経済に、一次産業をどう追従させるか、改革開放「特色ある社会主義」の一番の腕の見せ所でもあります。

 豊かさを 求めるスピード 衰えず
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後発国の強み

2005/11/20 00:52
 1998年、帰国後瀋陽の工業大学に電話をしたら番号が全部変わっていました。

 私は元NTTの電話屋ですが、これは日本では考えられないことでした。
 磁石式、共電式、リレー式、クロスバー式、電子交換機。と方式が変わっても、局番の付加をするだけで、加入者番号は変えませんでした。
 簡単なようで、これは大変なことだったのです。例えて言えば、住民が住んだまま、住宅の改装増築工事をするようなものです。

 お上の御威光で、ばさっと全部新しく出来るのが、中国の強みです。
 道路もしかり。土地は全部国有。用地買収の苦労が無いから、定規で線を引いた通りに作れる。
 インフラ整備に、付帯工事が少ない。それに技術的な試行錯誤の階梯が少ないのも強み。
 後発国が先進技術の恩恵を受けるスピードは、先進国と変わらない。

 後発国には、後発国の強みがあります。

 一周を 遅れてトップと 肩並べ
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一億総中流

2005/11/19 09:09
 日本人は、80%の人が自分は中流と思っているそうです。
 
 実は私も年金生活者で、年収200万円少々で中流というには程遠いのですが、特に貧乏という気はありません。

 中国は、階層分けするときよく以下の四つに分類します。
 貧困 飢餓水準以下の絶対的貧困。
 温飽 一応飢餓は脱して、着る物、住む場所も暑さ寒さを凌げる程度にはある。
 小康 日本でいう、中流。自動車に何とか手が届く水準。
 富裕 金持ち。
 そして中国政府が、大半の国民が貧困は脱したと宣言したのは、確か1995年前後でした。
 しかし、それはまた新しい貧困を生みました。
 「大鍋飯」皆が同じ大鍋をつついていた時代、絶対的貧困時代は知らなかった相対的貧困。それが農民を襲い、都市へ流れて新たな絶対的貧困を生んでいる。
 それは、産業革命が農民を農地から切り離し、無産階級を作ったのに似ています。
 中国の悲劇は、彼等が都市労働者になる道も閉ざされていることです。
 江戸時代の農民のように、彼等は農地を捨てることを許されません。居住地選択の自由が有りませんから。

 改革開放は、まさに胸突き八丁です。

 改革が 貧しさを知る 窓を開け
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いつの日

2005/11/18 23:23
 中国国家統計局2000年12月31日の発表によると、国内総GDPが1兆$を越えました。
 
13億の人口で割って、一人当たり約800$。日本の正確な数字が知りませんが、一人当たり25,000$位はあるはずです。

 GDPで比較する限り、日中の経済格差は30:1ということになりますが、実感はそれ程無いようにも思います。
 瀋陽で見る限り、そして衣食住という生活の基礎で見る限り、中国人庶民が日本人に比べて、三十分の一貧乏だとはとても思えません。物価もそれ相応に安いからです。
 私の1952年電気通信省試用員補としての初任給が、4,200円でした。人民元に換算すると、280元です。年収で言うと約5,600元。
 それから40年、辞める時は年収で、70万元位ありましたから、単純に絶対額だけで比較すると125倍金持ちになった訳です。しかしそんな実感はありません。また当時それ程貧乏だったという惨めさもありません。
 40年間の、貨幣価値の変化を換算していませんから、125倍という数字の単純比較は無意味ですが、感覚的には精精10倍でしょうか。

 よく中国人に、「我々の暮らしはいつ日本に追いつくか」と尋ねられますが、感覚が絡むと、意外に難しい質問です。

 貧乏と 勤勉の神の 駆け比べ
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庶民の夢

2005/11/18 09:30
 1995年、天津で行われた日中友好弁論大会に参加したときのことです。

 日本からは、私を含め代表三名でしたが、中国人は20名程が日本語で演説し、上位二名が日本留学というご褒美つきでした。

 入賞者にラジオ局のインタビューがありました。
 問「いま貴方が一番欲しい物を三つ上げて下さい」
 答「学歴、お金、恋人です」
 若者は正直と言うべきか。

 昔、よく言われた中国人の夢は、「洋館に住み、日本人の嫁さんを貰い、中華料理を食べること」でした。
 農民の夢は、「二畝地、一頭牛、老婆孩子、熱炕頭」(食えるだけの土地、一頭の牛、女房に子供に暖かいねぐら)ささやかです。

 我が夢は かかあと餓鬼と 寝るねぐら
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未だ帰らざる孤児

2005/11/17 09:39
 一人中国から残留邦人又は残留孤児が帰国すると、その人の係累になる人が、関係者として日本に在留資格ができ、入国査証がおります。

 その数は多いときで80人位になります。日本の法律では六親等(ふた従兄弟、親同士が従兄弟)まで親類ですから、すぐそうなります。そして中国の一家人は、結びつきが強固ですから、こういときはすぐ親類縁者をたどります。

 一方日本の親族が、親族として認定しないため帰国出来ない人が、瀋陽撫順一帯だけでも100人以上います。
 西洋人の家族がfamilyという個の集合体であるのと違い、東洋の家属は、帰属する概念、即ち一つの化合物の中に溶け込むことです。結びつきも強固だが、粒子が溶け込み難い。
 一人の孤児の受け入れが、80人の係累の受け入れにつながる現実を目の前にして、家族として認定するのが、難しいこともあるのです。

 大地の子は、日本に帰っても幸せになるのが難しいのが現実です。

 終戦子 還暦迎える 歳になり
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満蒙開拓青年義勇軍

2005/11/16 18:24
 当時、農村の16才から19才の少年が、満蒙開拓青年義勇軍の名前で、満蒙の僻地で開拓に従事していました。

 義勇軍という名前から想像するに、平時は開拓、一旦緩急あるときは銃も取る、屯田兵みたいな役割を期待されたのではないでしょうか。
 10才を過ぎたばかりの子供の私の目から見れば、随分大人に見えましたが、いま16才の少年を見たら本当に子供ですよね。

 彼等にも、甘い運命はありませんでした。血気にはやり強盗を働いて、公開銃殺された人もいます。これは風説に聞いたのですが、まだ血が付いた上着が群集の中に投げられとき、それを皆が奪い合ったとか。

 そんな中で、今でも忘れられないのが、宮城県出身の門脇某という青年です。彼は、部隊を脱走し中国人の農家に入り、このまま中国に残り農業を続けると言っていました。
 確か龍鳳という部落に近い、親日の富農の家に居ました。
 撫順に行く度に気にしているのですが、その後の消息は分かりません。

混乱の 土地に若者 夢をかけ
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居留民会

2005/11/16 00:52
 1946年再開された私達の学校の名前は、日僑俘子弟小中学校でした。

 日本人の捕虜の子供の学校という意味です。
 私達の正式な身分は捕虜かもしれませんが、通常は居留民と呼んでいました。

 撫順の炭鉱は、日本人居留民の技術と協力なしでは、維持できないのが分かっていたので、撫順は治安も良かったのです。
 当時、「居留民会報」というガリ版の新聞がありました。そこに最後の撫順炭鉱長、久保孚氏が石山灰一というペンネームでエッセーを書いておられました。
 石山灰一は、石炭の「炭」を「山」と「灰」に分解したもの。つまり「石炭一」ということです。
 この人は1947年7月、平頂山事件の責任を負わされ処刑されます。
 平頂山事件とは、1932年9月16日、紅槍会匪という匪賊の襲撃があったとき、住民が匪賊に協力したと、軍部の青年将校の独断に近い形で、一般住民3000人を虐殺した事件です。
 当時久保氏は炭鉱次長、民間人です。炭鉱運営の労働力の確保という立場からも、常に事を平和的に処理した人です。

 それでも、誰かが血で贖わなくてはいけなかったのでしょう。
 捕虜はときにBC級戦犯として、満足な裁判もなく処刑されました。

 一介の 庶民が国の 罪背負い
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暴動

2005/11/15 10:21
 どんな政府でも、政権を取ったら治安維持に務めます。別の言い方をしたら、治安維持が出来て始めて政権を担ったと言える。

 恐ろしいのは、軍事政権と軍事政権の交代の狭間です。一瞬無警察無政府の真空時間帯が出来る。

 あれは正確には、何月何日でしたか。1946年春3月のことだったと思います。
 撫順で八路軍が追われ、国民党軍が進駐してきました。
 八路軍の主力が撤退すると、中国人街の一角から「うぉーっ」という地鳴りのような雄叫びが湧起こる。暴動が勃発したのです。
 この一瞬は、何をしても捕まえる人がいません。力の強い者が勝ち。
 狙われるのは、主に日本人。
 私達もバリケードを組み、力で防衛する。集団で防衛できた人は良い。ばらばらに居た日本人は惨めでした。
 暴動が去った後は、文字通り箸一本残っていません。

 普通暴動は命は取らないというのが通説でしたが、一人の日本人の子供が竹槍で殺されました。
 郊外の競馬場に彼の土饅頭の墓があり、卒塔婆が立てられていました。
 確か「玉井某」。愛媛県の人だったと聞いています。
 
 混乱の 津波に庶民は 術もなし
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小偸儿市場

2005/11/15 10:15
 瀋陽の街角で、男が靴の片方を道端に置いて売っているのを見て、私ははっと息を飲みこみした。

 これがかつての小偸儿市場です。小偸儿は泥棒の意味。日本人は中国語と日本語をごちゃ混ぜにして「ショートルいちば」と呼んでいました。

 彼が泥棒という意味ではありません。
 とにかくなんでも売っている。何を持って行っても買ってくれる、そんな場所です。
 洒落て呼んだら、蚤の市ですか。

 時効ですから、告白しましょう。かつて子供の頃私も、ここにアパートから盗んだ台所用品、玄関から失敬したスリッパ等を持ち込んでは、その日の口そぎにしていました。

 ひもじさが 盗みの癖を 覚えさせ
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苛め

2005/11/14 12:11
 敗戦後一年、昭和21年の夏から「遣送」と言って日本への引き揚げが開始されました。

 技術抑留者と言って、撫順の工業鉱業関係の人が、何人か残りました。正確な数字は知りませんが、100家族位居たでしょうか。

 私の父は技術者ではありませんでしたが、抑留者の子弟の学校教師ということで、残留しました。
 周囲が、中国人ばかりになると、日本人の子供が苛められる番です。中国人の悪餓鬼共が寄ってたかって、私に対して地べたに「小日本、東洋鬼」と書けと強制する。韓信の股くぐり、黙って書きます。

 挙句殴られる。ビンタ位はなんともないのですが、睾丸を思い切り蹴られて、暫く血尿が出たこともありました。

 ガキ大将 苛められたり 苛めたり
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大地の妻

2005/11/14 00:02
 満洲には、電話交換手、看護婦などの仕事に従事しているご婦人も多く居ました。

 その人達が終戦後、身の保全の為に男装をするのですが、女性はどんなにしても女性です。子供の私が見ても、却って色っぽかったと思います。

 彼女達が、中国人男性と縁が生まれるのも極自然です。ある年齢以上の中国残留者を残留邦人と呼ぶのですが、残留邦人の中に女性が多いのは、支配者の地位が逆転した象徴でしょう。
 国民党の兵士と一緒になり、南方に行った人も少なくありません。
 子供のとき、外で遊んでいたら「日本人の子だろう。餅つきが出来るか。遊びにおいで」と、当番兵みたいな兵士に誘われたことがあります。
 餅つきの手伝いは口実で、将校の日本人奥さんの話相手でした。

 たっぷりご馳走になった楽しい思い出です。

 国破れ 撫子異国の 土地に咲き
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避難所

2005/11/13 13:48
 撫順、瀋陽は終戦後も比較的治安が良い都市でした。

 そこへ満蒙の辺地での開拓住民、北朝鮮一帯の政情不安の地から多くの避難民が流れて来ました。女子供と僅かの老人。老人の多くは「大地の子」のお爺ちゃんのように途中で棄てられたのでしょうか。

 その人達は、学校へ収容され、そこを「避難所」と言いました。
 飢えと寒さの中で、発疹チブスが流行し、多くの人が死にました。
 その人達の殆どは、校庭の隅に掘られた防空壕に棄てられました。
 その数約2000。春の雪融け前に馬車に積まれ、付近の川渾河に流されました。

 むしろの陰から、凍った足だけ出した遺体の山の行列が、家の前の道を通ったのを覚えています。
 
 日常の 営みの中に 死が宿り
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悲しい伝説

2005/11/12 19:32
 1945年8月9日、日ソ不可侵条約を破ったソ連軍は、まさに怒涛の勢いで東北平野に侵入しました。

 スターリン戦車が道幅一杯に車道を走ると、沿道の民家は屋根まで揺れました。

 満蒙開拓民として、国境の辺地に取り残された老人子供婦人の中には、集団自殺した人もいました。
 ソ連の戦車に向かって、婦人が「爆弾テロ」のように飛び込み自殺をしたと言う伝説があります。当時最後の関東軍としてこの地で戦った私の友人Nさんは、これを静かに、しかしはっきり「フィクションです」と否定します。

 30キロ爆弾は、屈強の兵士でも腰にしたら容易に動きがとれません。それに、敗軍は指揮命令系統が混乱して何も出来ません。事実終戦さえしらず、(混乱の中で、終戦を伝える伝令を殺した)武装解除に応ぜず、21日まで戦った部隊もあるのです。
 
 戦争が 庶民に残すは 涙だけ
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通貨破壊

2005/11/12 08:30
 終戦前、100円札は我が家では珍しかった。たまに手にすると、これが100札だよと、父がわざわざ見せてくれたのを思いだします。

 その100円札が、1945年8月15日を境に一夜にして、紙切れになりました。

 撫順にソ連が入ったのがいつか、詳しい記憶は無いのですが、秋にはソ連の軍票を使っていました。青くて薄い図書券みたいな感じでした。
 次の共産党政権とは、無血移譲でした。しかし通貨は変わりました。
 そのあとすぐ、国民党が入城。
 しかし、共産党国民党夫々に支配地域を持っていましたから、政権が変わったとたんに紙屑ということは無かったと思います。
 1948年8月。その後の解放までが劇的でした。
 国民党破綻を前にして、見事に紙屑になりました。
 午前と午後とで物価が2倍変わる。最後はリュック一杯国民党紙幣を持っていっても、それと同量の大豆が買えませんでした。

 これはインフレでなく、通貨破壊です。

 どうせなら 天井も破れ インフレで
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中国史の中の元

2005/11/12 08:28
 中国ではかなりのインテリでも、元寇の役について知らない人が多い。
 
 元は歴史年表上は、1279年から1368年まで89年間中国を支配した王朝です。
 それなのに、マルコポーロの東方見聞録に「大都」と紹介された北京の中で、元の遺跡があまりに少ない。

 昔北京語言学院で習った教科書にも、元代の遺跡で現存しているのは、薊門橋付近と、日中友好病院の付近にある僅かの濠だけだとありました。
 ハード的にもソフト的にも徹底的な破壊があった。それは、継承を拒む何かが有ったことを暗示しています。
 日本の統治時代の建造物は、むしろ重要文化財として保護されている。保護されないまでも、積極的に壊されたものはあまり聞きません。

 これだけから、何か安易な結論または、推論を導く気持はありません。しかし、興味はあります。そして中国人にとって「元」は何なのかも大いに興味があります。

 夏草や 大都の濠は 跡もなく
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三十六計逃げるに如かず

2005/11/10 12:18
 遠くに砲声が響く。暫くすると束の間の暴動も治まり、路上には人影も無く街中が閑散とする。

 八路軍の殿が騎馬で駆け抜けた後に、国民党の軍隊がトラックで乗りつける。

 共産党軍から国民党軍への政権交代はこんな形で始まりました。
 私は道路わきの家の二階から、恐る恐るそれを見ていました。
 機関銃を車から降ろし、緊張にこわばった表情の若い兵士が、街角に据え付ける。
 私は上から見ているから、そこに相手の兵隊が居ないのは分かるのですが、国民党の兵士には物陰は見えませんから、一挙動一挙動に警戒心を漲らせて前へ進む。
 やがて、裏の渾河に架かっている橋の爆破音が響く。先の殿の兵士が最後の任務を果たしたのでしょう。
 そして全市に国民党の党旗、晴天白日旗が何事もなかったように翻り全てが終わりました。
 少なくとも撫順の政権交代は、無血占領と言っていいほど、あっけなかった。

 内乱ずれしている中国では、攻防ともに彼我の勢力を見て手を打つのも早く、とことん殺しあうのは、むしろ稀なようです。

 戦乱の 智慧の結論 逃げること
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日本化教育

2005/11/09 19:52
 1997年瀋陽で日本語教師をしていたとき、当時70才を少し過ぎたご婦人が、バスの中で私を日本人だと知って、昔の歌を歌ってくれました。

 紀元節の歌、明治節の歌です。

 そして圧巻は、御真影奉戴の仕草をしたことです。御真影奉戴とは、天皇皇后の写真を恭しく捧げ持ち、後すざりするように歩きます。さきの紀元節や明治節のとき校長が、これを行いました。
 植民地経営も、経営である以上投資が要ります。それが、治安維持と民度の向上、即ち教育でした。
 惜しむらくは、教育は日本化でした。満州族の清が少数民族として漢民族を支配するとき、満州語を捨てても、基本的に漢民族の風俗を尊重したのとの違いです。

 朝礼は、東に向かって皇居遥拝にはじまり、神社参拝も強要とは言わないまでも、反対できる雰囲気はもともと有りませんでした。

 植民地 経営基盤は 教育で
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米西、米西

2005/11/09 08:20
 始めて中国人の家庭によばれたとき、「メシ、メシ」と言われて戸惑ったことはありませんか。

 中国語には無い言葉なので、敢て中国語にするなら「米西、米西」となります。

 直訳したら、「飯、飯」。
 こころは、「どうぞお食べ下さい」という意味です。
 これも、例の抗日映画で普及した、妖しき日本語。
 昔私達悪餓鬼は、「メシメシ シンジョウ」(飯飯、進上)と前に両手を重ね、乞食の真似をして中国人をからかいました。
 日本人社宅に、纏足の女の人が子供の手を引いて、ゴミ箱に食べ物をあさりに来る。
 その人達に、「メシメシ シンジョウ」と囃し立てながら、よちよち逃げるのが面白くて、石を投げこともあります。

 苦い思い出です。

 悪餓鬼の 遠い思い出 胸の澱
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米の飯

2005/11/09 02:11
 昭和17年食糧管理法が制定され、お米は自由に売買出来ませんでした。

 この法律は平成7年に新食糧法が出来て廃止されました。

 制定当時、中国人は米を持っているだけで経済犯として逮捕されました。このことは、俗に言う「食い物の恨み」。今でも旧満州国が話題になると、必ず中国人が話題にします。
 当時中国人の家に呼ばれてご馳走になったことがあります。一品ずつ出される料理の中の一つとして、丼に白いご飯が盛られただけの物が出されました。当時の中国人にとって「米の飯」は、それだけでご馳走だったのです。
 当時の満洲を代表する風物は高粱畠でしたが、今はむしろ珍しい。米は、稲作の北限に近い北緯45度「日本の稚内」くらいまで作られています。

 今米は一キロ日本円で約40円。高粱は一キロ約50円と、雑穀の方が割高です。

 食い物の 恨みは厳し 風化せず
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少年工哀史

2005/11/08 09:00
 撫順炭鉱は露天掘りと言って、池を掘るように全体から石炭を掬うように掘ります。東西2キロ強、南北7キロ弱、深さ約300メートル。

 それだけ埋蔵量が豊富だということでしょうか。それに無煙炭と言って、質の良さでも第一でした。
 いまは、山西省太原に質量とも一位の座を明け渡し、斜陽の身をかこっています。

 子供の頃、学校から2キロ程離れたここには、よく遠足に行きました。そこでお弁当を広げている横で、少年工が、文字通り素っ裸で額にロープを掛け、それで石炭を満載した麻袋をひっぱり、谷底から運び上げていました。

 しかし本当の哀史は、その職にもありつけなかった人達です。
 炭鉱労務局の窓口には、毎日、ようやく饅頭数個の賃金を求めて、飢えた少年が群がりました。

 一日の 汗で一切れ パン求め
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やどかり

2005/11/07 21:58
 東北、中でも瀋陽撫順の昔の工業地帯には、山東省の人が大勢います。
 
 山東省からは、煙台から船に乗れば遼東半島は目と鼻の先です。

 日清戦争でこの地を得た日本は、ここを拠点に植民地経営に乗り出しました。そしてここから、国策会社南満洲鉄道、所謂満鉄経営の歴史が即ち満州国の歴史とも言えます。
 撫順炭鉱も、瀋陽の重工業も全て満鉄が経営していました。その労働力の供給源が、山東省でした。
 戦乱と内乱に疲弊した中国本土から、難民に近い形で職を求めた人達が流れて来たのです。
 その人達を日本人は、やや軽侮の響きを込め「山東苦力」(サントンクリー)と呼んでいました。

 彼等の多くは住む家も無く、零下20度以下の極寒の屋外で、常に身にした全財産煎餅布団一枚を、やどかりのように纏い、ただうずくまって過ごしたのです。

 木枯らしと 粉雪の中 うずくまり
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落ちこぼれの理想郷

2005/11/07 21:45
 父が子供の時ですから、もう80年以上前、大連に「一万円」という屋号の帽子屋さんがあったそうです。

 一万円貯めるのが目標でつけた屋号とか。当時の一万円は今の一億円に相当しましょうか。

 故郷を捨てて、王道楽土に来た人達は夢を持っていました。一面で日本の落ちこぼれでした。開拓農民として満洲の荒地を耕した人達の多くは、日本で小作の辛酸を嘗め尽くした人達です。
 最近、インターネットで偶然私に立派な親類があることを知りました。生前の父も、昔祖母も、そのことは言ってくれませんでした。多分昔不義理をしているのでしょう。
 父の好きな言葉は「人間到処有青山」でした。人間はどこにでも故郷があるという意味です。帰る場所の無い人達は、ここに理想郷を求め、一生懸命働きました。

 残念ながらこの地には、すでに中国人という先住民族が、文化圏を作っていました。

 王道の 楽土に流した 血と涙
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現在は満州国

2005/11/07 08:30
 5年前90才で亡くなった私の父は、旧満州国で仕事をしていました。

 終戦のとき36才。鶏寧という牡丹江の奥、ソ連との国境に近い辺鄙な県で総務課長をしていました。「私のしたことは、中国の役にたっている」と最後まで侵略を認めませんでした。

 父が当時の思い出の一つとして語ったのは、中国人が二言目には「現在は満洲」と言ったことです。満州国は未来永劫と信じていた父にとって、「現在は」というところが、やけに耳障りだったとのこと。
 この「現在」には二つの意味があります。
 1 とにかく「現在」食わせてくれているのは、日本人だ。
 2 そのうち居なくなるだろう。

 良きにつけ悪しきにつけ、新中国建設に大きく関わった満州国13年が、中国全国統一の最初の政権となった秦の15年と、比肩できるようになるか、歴史はもう少し時間が必要なようです。

 功罪は 歴史の評価の 時を待ち
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同居する英霊

2005/11/06 21:47
 満鉄(南満洲鉄道の略称)の駅周辺には、鉄道付属地というのがありました。

 名前からいっても、本来的には、鉄道従業員宿舎とか、操車場とかの鉄道関係付属設備のための用地だと思うのですが、直接関係しない多くの日本人もここに住んでいました。

 治安が良かったからです。というより、こういう点に近い狭い範囲しか、治安が確保できなかったのかもしれません。
 旧日本人居住地を探すときの、もう一つの手掛かりは、解放記念碑を探すことです。日本人が作った忠霊塔が、これに転用されているからです。 少なくとも撫順と承徳はそうです。その近くに旧日本人居住地があります。

 日中戦争を戦った互いの無名戦士が同居しているのは、ある意味では意義深いことだと思います。

 恩讐を 越えて眠るか 一つ屋根
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蝗と流言蜚語

2005/11/06 11:04
 中国の歴代為政者にとって、一番恐ろしかったのは、蝗と流言蜚語ではなかったでしょうか。

 流言蜚語は燎原の火の如く、国共内乱でもその諜報戦の役割を担ったのが、政治工作員と呼ばれる人達です。

 1948年夏。国民党の支配地は、錦州、瀋陽、撫順、点に限られていました。今にして思えば、あの人達がそうだったのかなと思う人達が人目を避け、それとなく政治宣伝のようなことをしていました。民衆は、指で「八」の字を作り、「八路」だと声を潜めて、彼の話を聞いていました。

 彼等は文字通り命がけです。一度捕まって市中引き回しされているのを見ましたが、最後まで実に堂々と、演説をしていました。

親友を 泣かせても行く 絞首台
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便衣隊

2005/11/06 01:21
 抗日戦争映画を見ていつも思うのですが、私が実際に見た抗日の兵士の服装は、実にお粗末でした。

 戦争は、一面で兵站線の確保の戦いです。鉄砲を撃つ人も飯を食う。部隊の移動のとき輜重兵といって、食料部門を担う人が、大勢居ます。

 ソ連軍は、馬車が輜重の主力だったように思う。
 国民党はトラック。
 八路軍は、天秤棒を担いだ輜重兵が、歩兵の後に延々と続きます。
 正規兵でも、軍服をきちんと着ていた人達は、馬に乗ったごく一部の人間だったように思う。
 まして、輜重兵はどこからみても農民です。

 因みに便衣隊は、軍服を纏わぬ農民兵に日本人がつけた名前で、中国では遊撃隊と言います。

 天秤を 素足で担ぐ 輜重兵
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闇両替屋

2005/11/05 09:38
 闇というから、こそこそやっているのかと思ったら、大間違い。
 
 中国銀行へ行ったら、それと分かるお兄さんが、フロントの椅子にでんと構えています。

 「日本円」それだけ言うと、レートを言ってくれます。分からないときは、銀行員に尋ねていますから絶対正確。
 両替え金額を言うと、私を手招きして自分の後ろへ呼び、窓口へ並びます。必要な金額だけ、自分の通帳から下ろし私に呉れます。
 私は最初銀行のフロントマネージャーかと思っていたのですが、私が確認の勘定をするとき、人目から隠しますから、やはり闇屋なのでしょう。
 相場は、正式レートより色を付けて呉れるし、面倒な手続き一切無し。今銀行から目の前で下ろした金ですから、偽札の心配も無し。

 勿論、外国人留学生相手の専門闇両替屋、ホテルなどに屯している旅行客相手の闇屋、旅行社等が代行する臨時の闇屋等も数多くあり、むしろそちらが闇屋の主流です。

 公然と 闇屋の屋号で 商売し
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地下銀行

2005/11/05 03:42
 中国の地下銀行の取引高が、2003年に10兆円を越えたと報道されていました。

 これは正規の銀行取引高の3割を占める額だそうです。

 日本に密入国で稼いだ金も、地下銀行で送金されます。
 まず日本の地下銀行の手先に電話をして来て貰う。
 送金相手と金額を言う。
 手先が中国へ電話をする。
 中国側の地下銀行がその金額を相手に届ける。
 相手が送り主に受け取ったと電話をする。
 そこでこちらの手先に支払って取引完了。
 手数料は、1%。所要時間は30分。

 安くて、安全、迅速、確実。地下銀行のモットーです。

 地下銀行 庶民のニーズに 花盛り
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中国のインテリ

2005/11/04 18:18

 私の友人Lさんは、瀋陽工業大学の青年数学教授です。

 申し訳ないが、よれよれのズボン姿をみると、とても新進気鋭の大学教授には見えません。

 ときどき、御宅にお邪魔して、囲碁を打ったり、夕食をご馳走になったりするのですが、10階建てのアパートにはエレベータも無く、全部で24平米ほどの狭い部屋には、家具らしい家具と言えばベッドだけ。書架も無く数多い専門書は、ベッドの下に平積みされています。
 文革のとき、一番目の標的になったのが地主、二番目富農、三番目は確か反革命分子、以下右派等に続いて、九番目が知識分子、即ちインテリでした。
 中国でインテリは、日陰の身というより、攻撃の標的だったのです。

 Lさん月収は600元弱。「女房より少ないよ」と屈託の無い笑顔で、霞とプライドを食べて生きています。
 
 インテリは プライドを食べ 高楊枝
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香港返還

2005/11/02 22:06
 1997年7月1日は、香港返還の日でした。

 全国テレビで放映された、ユニオンジャックが下ろされる前に直立する、江沢民さんの一世一代の晴れ舞台は、私は瀋陽で見ました。

 あくる日タクシーを一寸止めさせて、ごそっと新聞を買ったときです。不思議そうにしている、若い運転手に向かい、「私は日本人だけど、昨日の香港返還の場面は感動した」と言いますと、彼「あんた日本人か。私の父も日本語が上手だった。元気ならあなたと変わらない年だ」と言った後、何かを思い出すように口をつぐみました。
 そして、タクシーを降りるとき、「今日はタクシー代要らないよ」と、爽やかな笑顔を残して、呆然とする私の前から、名前を尋ねる間もなく立ち去りました。

 彼が私に父の面影を見たのか、日本人が香港返還に共感を示したことに好感を持ったのか、いまだに分かりません。
 
 100年の 店子が去って 歴史閉じ
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大学囲碁選手権

2005/11/02 11:28
 1994年、北京語言学院に短期留学しているとき、大学囲碁選手権大会に参加させてもらいました。

 当時59才でしたが、一応大学生の身分ということで、暖かい配慮を頂きました。

 試合は、予選が二日。4局中二局勝ったら予選通過。
 予選通過者50人程で変則リーグを戦い、上位10名が入賞というものです。
 粗末なビニールの布で作った盤。ガラスの石
 参加者約300名。私は残念ながら11位で、本来入賞は無いのですが、特別賞を頂きました。優勝者はプロ棋士でしたから、かなりレベルの高い大会だったのです。

 日本人の珍しさでしょう。試合の合間に次々と番外対局を申し込まれ、全て受けました。
 中国の若者は熱いです。

 白黒の 手談は言葉の 壁を越え
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琴棋書画

2005/11/01 22:36
 「棋」は囲碁のことです。

 中国では、囲碁は音楽、書道、絵画と同列に芸術としての地位を得ています。

 改革開放経済がある程度成果を見せ、親の経済状態が良くなった。一人っ子政策で、子供の教育に親が熱心。そんな事情を背景にして、中国で囲碁教育は盛んです。塾も多く、中には全寮制で月謝300元、生徒数20人以上と言うところも少なく有りません。囲碁を正課に取り入れている学校もあります。
 子供達は、滅茶苦茶強い。相撲に例えたら、子供たちの多くはすでに十両、プロの風格と実力を持っています。
 因みにいま一番強いのは、韓国。十個金メダルがあったら、七個が韓国、残りの三を中国と日本が争っているのですが、ときに日本はゼロになります。つい十数年前までは日本の独断場でした。

 勝負の世界は目に見えますが、目に見えない技術の世界でも、流れの変化はすでに起こっているはずです。

 中国は 烏鷺の戦い 芸の道
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結婚式

2005/11/01 11:15
 これまで、結婚式に三回お招きを受けました。

 お祝いは「紅包」という封筒上の奇麗な包みに、名前を書いて渡します。「紅包」は式場にも準備しています。

 さて、気になるその金額ですが、最初中国人の友人に聞いたら200元ということでしたので、200元とラジオを贈りました。しかしどうもこれにも日本人料金というのがあるようで、400元でも多すぎることはないようです。何故か祝い事は偶数金額です。
 二度目は仲人をしたので、888元奮発しました。三回目は、666元。8も6も目出度い数字です。
 中国銀行で、結婚式に使うと言ったら新札に換えてくれます。
 「点煙」と言って、キャンドルサービスのように新郎新婦が、煙草のサービスにテーブルを回りますが、そのときに渡します。

 式は料理が終わると、流れ解散のように終わります。

 結婚の 祝いも時代の 波を受け
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男は辛いよ

2005/10/31 07:39
 (半辺天)「天の半分」毛沢東はユーモアーがありますね。彼が、女性を持ち上げた言い方です。

 解放後の中国で、間違いなく解放されたのは女性です。

 纏足なんて勿論ないし、例外なく共働きです。
 だから男性は実にまめまめしく家事労働をします。
 家庭に呼ばれてご馳走になるときも、台所に立って料理をしてくれるのはご主人です。
 最近は、大都市近郊の農家は金回りがよく、女性が家庭に入って共働きをしないところも出てきました。
 それに対して、共産党の婦人幹部が、「女性が社会進出を自らやめるのは、女性解放への逆行だ」と説いたら、「金さえあれば、私も働きに出たくない」と女性が応じていました。
 本音でしょうか。

 解放は進んだと言っても、やはり、まだまだ女性の家事労働負担は重いようです。

 女房も おだてりゃ 天の力出し
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城郭の町

2005/10/30 01:23
 興城(遼寧省興城市)には、明の時代に寧遠衛城と呼ばれた城郭が、全国重点文物保護単位として保存されています。

 800メートル四方を青レンガと巨石で囲まれた城郭は、最も昔の面影を残しています。

 このような城郭が、私の子供の頃は撫順城を始め到る所に見られました。
 その多くが文革で壊されたというのですが、文革の破壊力の凄まじさが想像できます。

 雲南省麗江市には、世界遺産に指定された古城があります。上海近郊の水郷の町、周荘の規模を数倍拡大したように、趣があります。
 
 城郭に 人も歴史も 閉じこもり
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物は大切に

2005/10/29 12:07
 1995年、中国は抗日戦争勝利50周年ということで、連日キャンペーンがあり、日本人には居心地が悪いことこの上なかった。

 その抗日戦争映画を作る「八一電影院」という解放軍の撮影所に行ったときのことです。

 なんと1945年の撮影器具がまだ使われていました。当時はソ連の最新機器だったのでしょうが、いまだに手入れして使っている。
 日本人が昔働いていた工場を訪ねたら、自分が使っていた旋盤がまだ現役だったの見て感動した、との記事を読んだことがあります。

 中国人は、物を大切にします。
 耐久消費財に対する感覚は、単に貧しいというだけでは説明がつかない程徹底しています。
 日本で粗大ゴミの山を見る度に、何かが狂っていると思うのです。

 モッタイナイ 世界に通じる 日本語
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オール眼鏡屋

2005/10/28 09:47
 中国に「九干一水」という言葉があります。10年に一度は大水が出るという意味です。

 1998年、100年に一回の大水害がありました。
 直後に、通遼(内蒙古)に行ってきました。
 地平線まで見渡せる大平原が、全て水に埋もれたというのは、見ていないから信じられないのですが、水の爪痕は残っていました。

 ハルピンの松花江には、その時の水位を示す記念塔がありますが、ハルピン全市のアパート一階まで浸る水位です。
 私はこれを見て思うのが、瀋陽中街の眼鏡屋です。瀋陽700万人はおろか、全中国の眼鏡がここだけで賄えるのではないかと思うほど、全店眼鏡屋です。
 写真が当たったら、全市に写真屋。コピー屋が当たったら、全市にコピー屋。今は全市に網バー、即ちインターネットとゲームコーナーです。

 この極端な供給過多はなんでしょう。それに応える受け皿が現にあるということです。
 俗に言うマーケットの大きさ。しかし大水が一斉に引くようなマーケットでもあります。

 見渡せば 一色だけの 旗が立ち
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人身売買

2005/10/27 10:01
 中国にはまだ、人身売買があります。勿論違法ですから、テレビ番組でも犯罪として報道されます。

 昔、語学学習で短期留学したときの教科書にも、結婚の一形態として売買婚があると載っていました。

 中国を旅行すると、青い目の人達の養子縁組ツアーと出会います。ホテルのロビーで乳母車に子供を乗せ、我が子以上の慈しみ方をしています。その人達の多くは自分の子供もいます。
 人身売買と、キリスト教の博愛の精神を発揮している人達と、並べて書きましたが、私はこの養子縁組ツアーを、敬服こそすれ決して批難しているのではありません。

 一人っ子政策と関係なく子供は出来ます。その子達の多くはこの世の陽の目を見ません。見ても「黒子」(戸籍の無い子)として、生きなくてはなりません。養子になる子供の多くは、そんな宿命を負った子供達です。

 人形の ように貰われ 玉の輿
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都会の浮浪者

2005/10/26 10:07
 北京や上海のような大都会に行くと、流氓と言って定住地を持たない浮浪者が駅前等至る所に屯しています。

 子供の頃はもっと悲惨な光景を見ましたが、1992年、初めて新中国に来たときは見かけないことでした。

 中国には居住地選択の自由はありません。故郷を捨てると言うことは、戸口〔戸籍〕を捨てることであり、国民として何がしか得ていた恩恵を全て失います。それまでして彼等が都会に出てこなくてはならないのは何故か。
 改革開放は、「走れる者は走れ」。まず富の絶対額を増やし、それを普遍化して全体を豊かにしようという施策です。
 まず商工業の重点、沿海部に金を注ぎました。それが、絶対的には解決したはずの農民の貧困を、相対的には更に貧困化したのです。
 「昔は貧しかったけど、今より暮らし易かった」
 「大鍋飯」皆が共に貧しい間は無かった、この貧困感。
 これが内陸格差であり、中国政府の最大の隘路になっているのは、周知のことです。

 「民は乏しきを憂うるにあらず。等しからざるを憂う」社会主義が解決するはずだったこの矛盾こそ、今の中国の最大の課題です。

 貧困は 好んで選んだ 道でない
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小銭をねだる子供

2005/10/25 07:28
 少し小奇麗な自家用車に乗せて貰っていると、踏み切りなどで停車したとき子供が寄ってきて、窓へ向かって手を出します。

 運転手は、用意している小銭を渡します。たまに小銭が切れていると、丁重に「今日は小銭が無いけど、次は必ず上げる」と言って頭を下げます。
 「君は偉い」と感心したら、「いやこうしないと、何をされか分からない」と返事をしました。

 この最近、盛り場等で小銭をねだる子供が本当に増えました。
 私達は、進駐軍のジープに「ギヴミーチョコレート」の世代です。私自身おねだりしたことは有りませんが、飢えは知っているだけに、いつも心を暗くし、身を縮めるようにして通り抜けます。

 振り切れないとき、小銭を上げるのですが、却ってやりきれない気持になります。

 物ねだる 飢えた子供に 罪は無い
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小皇帝

2005/10/24 10:20
 一人っ子政策の結果子供は、まさに皇帝です。女の子は小公主と呼ばれます。

 子供の服装がよくなり、少なくとも都市部では、かつてのしらくも頭に、青洟を垂れ流した子供は見ません。

 日本でも、最近は「知らない人には絶対について行くな」と教えなければならないほど、物騒な世の中になりましたが、中国も子供の下校時には、校門の前に出迎えの親が黒山になっています。
 日本の中国関係の新聞で見たのですが、解放軍の兵士に親離れしない子が居て、兵営の前に両親が屋台を出し、息子に食事をさせているという記事を見ました。

 嘘みたいですが、本当に珍しくない光景のようです。

 爺婆が 四人で 一人の孫を抱き
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獄中詩人

2005/10/23 09:05
 日本で中国人の犯罪があると、通訳でお手伝いすることがあります。

 彼は密入国で来て、工場で働いていたのですが、腰を痛めて転落の道を歩みます。

 取調べは、のべつまくなく尋問しているわけではありません。被疑者の心を開く雑談も重要な部分になります。
 その日はおりしも中秋節でした。

 異国の獄舎月光かすかなり
 共に月餅を食らいしはいつの日ぞ
 娘よ許せ
 晴れ着一枚買い与えざる父を

 即興の拙句に、彼も即興で七言絶句を返しました。
 
 牢中望月
 夜獄遥望異国月  夜獄 遥かに異国の月を望む
 玉輪共照故郷円  玉輪 共に故郷を円かに照らす
 年年月円人不円  年々月は円べど 人は円ばず
 更為老少増心傷  更に為す老少 心傷を増す

 月明かり 獄舎の窓辺に 子の笑顔
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蛇頭

2005/10/22 01:13
 不正出国、受け入れ側から見れば、不正入国の仲介を業とする人達の総称です。
 役割機能的にみると、勧誘蛇頭、引率蛇頭、受入蛇頭に分けられます。勧誘蛇頭は不正出国までを受け持ちます。

私も実際にこの人が蛇頭だという人に会ったことはないのですが、この人達は第七次産業に属すると見ています。

 実は、心ならずも不正入国の片棒を担いだことがあります。その時の相手の肩書きは、相当な機関の幹部Xでした。さらに、YがXを批難しながら別の仕事を持ってきたのですが、彼の呉れた名刺のFAX番号はXと同じでした。

 全ての産業の最上層で、専制的権力を持つ人。彼が蛇頭と言うのが言い過ぎなら、少なくとも勧誘蛇頭は、彼等を利用していると言い替えましょう。
 一党独裁を国是としている国で、その権力の外の人が、大きな権力を動かすのは考えられないからです。

 蛇の道と 知って分け入る 法の裏
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長城と防衛

2005/10/21 08:14
 万里の長城は、秦の始皇帝が北方の異民族の侵入から防衛するために作りました。

 しかし皮肉なことに、秦を倒したのは、「陳勝、呉広の乱」。築城に従事した農民です。

 その後、元の侵入に対して、長城は何か有効に機能したでしょうか。
 明を倒したのも、築城を担った、李自成率いる農民です。
 その李自成を倒した清のドルゴン軍に対して山海関は、呉三桂の寝返りで、全く逆効果の働きをしました。
 21世紀。核兵器という長城に防衛を頼ろうとしている中国が、同じ歴史の過ちを犯さないことを切に願います。

「人は石垣、人は城」。友好に勝る、防衛はない。核兵器だけは絶対に駄目だと、声を大にしたいと思います。

 友好は 如何なる武器にも 勝る武器
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国境の町

2005/10/20 09:46
 吉林省に延吉という小都市があります。

付近一帯は朝鮮族の自治州で州都でもあり、人口は公称30万弱、その内の約半分が朝鮮族です。

 20世紀の始めは8万しか無かったこの一帯の人口が、日韓併合以後は30万に膨れ上がりました。
 そして今この町は、夜は路上に寝る人が居るほど、文字通り路上まで人人が溢れています。この30万+αの人は何処から来たのか。
 天から降ったか、地から湧いたか。
近郊の豆満江を東に50キロも下ると、鴨緑江に合流し、北朝鮮との間に200メートルほどの橋が架かり、中央は封鎖されています。
 川は、膝まくりしたら渡れそうな感じ。中朝は友好国ですから、機関銃の睨み合いもありません。国境さえ無ければ、共通の生活圏です。

 中国は、14の国境を接する国と、22800キロの地球を優に半周する国境線を持っています。それが常に、何らかの緊張を伴っています。

 国境の 町はロマンも 凍りつき
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内陸格差

2005/10/19 07:23
 中国大陸の揚子江から黄河一帯を飛行機から眺めると、各所にくっきりと砂紋が浮かび上がり、中国全体が一つの川のようにも見えます。

 天安門前広場の中国歴史博物館に行くと、巨大な中国全土の俯瞰図があります。

 そこでは、中国大陸が、黄河と揚子江の二つの三角州の上に乗っかっているようにも見えます。
 上流は常に西。西高東低、文化の歴史的流れも西から東です。
 もっとマクロの視点でみると、中国は、黄土高原の土砂崩れ地帯と言えると思います。とすると、繰り返される大水害も、「水を治める者天下を治める」と言われたのもよく分かります。

 近世、工業が生まれ、計画経済は改革開放で沿岸部に嵩上げをして、経済的に東高西低を生みました。その結果生まれた緊張が内陸格差であり、これも中国政府の頭痛の種です。

 貧しさと 土地の高さと 逆比例
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